2010/07/28
「愛国心とは自然と持つものであり、誰かに押し付けられ強制された愛国心は、害になりこそすれ・・・~」
という議論がある。
こういった方々は愛国心とは自我のうちに自然発生的に生ずるものだと思っているのでしょう。きっと。
けれど。
少し考えてみれば分かるのだが、個人の持つ規範のすべては所詮後付の理屈でしかないのである。人はあらゆるものを自分で発見、判断したように思っているがその多くは先人や周囲の人間に触発されての結果にすぎない。
たとえば食文化ひとつとっても関西と関東では味付けだけでなく好みも違う。なぜ角餅と丸餅の区別やすましと白味噌の違いがあるのか。
隣国では犬猫を食べるがわが国では食さない。この食の文化に正義や正解は無い。
ありとあらゆる習慣はマックス・ヴェーバーに言わせると宗教であるということになる。
科学的に合理的な説明ができないものはすべて宗教なのだ。
国旗・国家を毛嫌いする人間は、所詮は後知恵の宗教にかぶれているにすぎない。すべての争いは正義同士の戦いであるが故。
同様に愛国心も子どもが両親、祖父母の背中を見て育って養われるものであり、生まれ着いて愛国心のあるものなどいない。組織、共同体への帰属本能が国家という大きな形而上的共同体の認識を可能にするのであって、個人の良心に従うのも結構だがその良心の根拠の無い浮き草的な情緒しか持ち合わせていない人間にひとかどの良心があるものだろうか。
極端なことを言えば西暦だってキリスト教文化の押し付けではないか。
これはイエスの生誕を起源としている立派な宗教行事である。しかもそれだけでも特定の宗教を尊重するという憲法違反なうえに、最近の研究ではイエスの生誕は起源前3年とか7年とか~
ようするに根拠薄弱なものを習慣法的に運用しているに過ぎない。イエスの伝承をもって日本人も毎日を暮らしているのである。
その程度の根拠で運用できるのであれば皇紀2680年だって十分使用可能なはずである。
聖書は所詮私文書だがこちらは国家の文書、千年以上前の公文書であるぞ。
百歩ゆずっても平成元年は世界のどの国のカレンダーより由緒正しいものであろう。
君が代の正当性は山ほどあるであろう。また君が代の過ちも山ほどあるだろう。
ただ言えるのは、この国歌はきのう今日作られたものではないということである。
源氏物語が不倫文化であるからといって焚書する人はいないだろう。なぜならかの物語には国家や時空を超えた文学としての普遍性があるからである。
同様に千年の歴史を持つ和歌である国歌にもこの国の民草の普遍性をあらわしたものがあると言える。
そうでなければなぜ千年を詠い継がれてきたのか。説明がつかない。
この歌を毛嫌いする人々は相変わらずマルキシズムの唯物論に毒されていると言える。非科学的な迷信、封建制度の最たる悪しき制度とのみ天皇制を認識しているのかも知れない。
ちなみに君が代の「君」は即「天皇」ではない。
天皇は「天皇」「大王(おおきみ)」「すめらぎ」「帝」とは呼ぶが「君」とは言わないのは少し知識のあるひとなら常識である。
古今集などでは「君」は恋人に対する呼びかけであるのも常識。
「君」を天皇などと思い込んでいたら和歌の解釈は不可能である。
困ったもんだ。
