2010/01/17
戦前の日本による植民地政策のひとつに創氏改名というのがあります。
僕らはこれを他民族への日本姓の強制というふうに教えられてきました。けれど、実際はどうやらそんな単純なものではなかったようです。
これを説明するまえにまず、創氏の意味を調べましょう。
実は名前というものは現代では法的には「氏名」という風に規定されています。いわゆる苗字が「氏」で、名前、ファースト・ネームが「名」です。
この「氏」はファミーリー・ネームとも解釈される家族単位の名前の一種です。ところがこの「氏」の上位には「姓」と呼ばれるものがあります。いわれは「八草の姓(やくさのかばね)」で天武天皇が規定したものです。「臣(おみ)」とか「連(むらじ)」とか「朝臣(あそん)」と呼ばれたものです。もちろんこれらは一般人には無関係なものでしたが、部族でそれぞれてんで勝手に称していた名前を統一したものであります。
で、その下位にいわゆる「源平藤橘」という有力部族の氏があって、そのまた一族のなかで自称していたのが「苗字」ということになります。
日本人の多くは明治に苗字を創設しました。それまでは「名」だけで、あとはどこそこ村のとかどこの山とか川のそばという付帯名称をつけて区別していたのです。
さて、明治以降日本は国民に氏名を名乗らせるとともに国民の管理のために戸籍の整備をしました。
氏名はそのためにも必要だったのですが、日本政府はこの制度をどうやら植民地政策でも利用しようとしたようです。
実はかつての朝鮮では一族の範疇には女性は入っておりませんでした。というのも男子の血統を尊重し、しかも長子相続であったからです。したがって妻となった女性は男子を出産するまでは家族の一員とはみとめられなかったのです。この名残は日本でも3年子を成さなければ実家へ帰されたという風習にもうかがえます。
しかも日本の場合は女子を産んでも妻は夫の氏を名乗っていましたが半島では妻は夫の氏を名乗ることも出来ませんでした。
これをもって男女平等とかいう勘違いの意見を述べる方がおられますが、実際は女性差別であったのです。
なぜなら、女性の氏(正確には「姓」ですが)は子供を作っても引き継がれることはありません。女性は一代限りの名前を名乗り死んでゆくのです。子供たちは代々の同じ氏を先祖として祭祀を行いますが、よその家からきた女性はたとえ母であっても祭ることは無いのです。
さて、ここで創氏改名にもどります。これまでは別姓を名乗っていた女性を含んだ家族の集団として一族があったものを、家族単位で分けようとしたのが実は創氏改名の「創氏」の部分でした。
つまり「金」なら「金」という姓を名乗っていた部族の夫婦と子供単位で同じ氏を名乗るようにしなさい、というのが創氏なのです。したがってこの場合は夫は「金」のままでも一向にかまいません。あとは妻が「朴」から「金」に変更するだけです。
この手続きを創氏といったのです。
一方「改名」のほうですが、これは「金」という方が通称の「金田」にしたいなと思って変更した場合、これが改名になります。
ですからこの制度はいわゆる日本風の苗字を名乗るように強制したというのは間違いです。
強制ではもちろんありましたが、その趣旨が違うのです。
実際この制度によって日本風の氏にした方は約7割強だったそうですが、残りの3割は従来の氏というか苗字を名乗るようにしたようです。
ところで朝鮮や中国には本貫というものがあって、これはその部族の出自をあらわします。それが日本の氏や苗字の役割をしていました。ですから「金」というだけでは他の部族なのか同族なのかわかりません。この本貫を確認して初めて一族かどうかわかるのです。
ただ同じ本貫のものは婚姻できなかったようで、この点はキリスト教の宗派が違うと結婚できないというのに似ています。
現在でもこの制度は残っているのですが、これは一部の上流階級に限ったことで、一般人にはそれが適用されません。またこういった出自の明確な系図を所有している一族には兵役の義務も無いようです。要するに王家に付帯する部族ということからそういった穢れに類する役目は免除されるようです。
彼らの系図は20年とか30年ごとに更新手続きがとられ、そのときには一族の末端に加えてもらおうという庶民が財を持ち込んで嘆願するようです。
で、この更新時はその一族の長者の儲け時になると聞きました。
かの、信長や家康も天下を取った時点で出自をどうするかに悩んだようです。というのも将軍職に就けるのは先に述べた「源平藤橘」などの氏子でなければならなかったのです。なぜならそれらを含む選民は天皇の臣民であって、それ以外のものが天下を取るということは簒奪、いわゆる易姓革命の要素を含むことになるからです。
簡単に言えば、縁もゆかりも無いのだから天皇を名乗ることが可能だということになりかねません。
その結果、徳川家は源氏ということになりましたが、実情は徳川の創始者は三河の流れ坊主だったようで、このことは徳川家の極秘事項となり秘密を知るものはごく一部のものとなりました。
かように氏素性というのは重大なものです。
